消滅寸前の町会を蘇らせた祭りのチカラ 地域活性のカギとなったもの
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おい、神輿だけでいいからちょっと手伝えよ——。
正直言って嫌だった。
手伝えと声をかけられた2002年当時、町会の夏祭りは風前の灯だった。お神輿の担ぎ手は同好会頼り。子神輿はとうとう台車に乗せて、押しているありさまだ。盆踊りはすっかり高齢者のカラオケ大会と化し、誰も寄りつかない。約40年前、私が子どものころの楽しく、活気ある江戸っ子の祭りは、もうそこにはなかった。
地元で商売をしていると、少なからず似たようなお声がけはあるだろう。自営業の私も当時の町会青年部部長に誘われ続け、断れなくなったのが2002年の夏のことだ。炎天下でお神輿を押さえ続け、うま(神輿を置くための台)を持って走る係をやらされた。まったく面白くなかった。そのころの青年部は4~5人いたが、3人はその夏で辞めていった。
このままでは近い将来、町会の担い手がいなくなる。青年部に入ったばかりの30歳の私は漠然と不安を抱いていた。若手を増やさないと自分の負担は大きくなるばかり。とはいえ、もし若い人が増えないなら自分もこっそり抜けよう。当時はまだそんな軽い気持ちだった。
東京にも人はいない
私が暮らす東京都墨田区立川(たてかわ)は江戸時代からの下町で、元々商売人が多い地域だ。我が家も先祖代々、商売人の家柄で、創業は150年以上前。ただし最近はこの地域でも商売をたたんで土地を売ってしまうか、ワンルームマンションを建てて家賃収入で生活する人が増えている。そのためか一人暮らしや20〜30代の“新住人”が増加中だ。
しかし、いくら人口が増えても町会の運営にかかわろうと思う新住人はほとんどいない。
恐らくこの地域にお世話になった経験もないだろうし、この地域が特別好きで住んでいるわけでもなさそうだ。「〇〇路線の〇〇駅から徒歩5分!」といった不動産屋の立地条件でたまたまここを選んだ人が大半ではないだろうか。そして働く環境が変わればまたどこかへ引っ越していく。この地域の未来やコミュニティーには興味がない。そうした人たちを何人も見てきた。
たまに地方に訪れて地元の人たちと話をすると、「東京は人がたくさんいていいよね」と言われる。対して「いや、人なんていませんよ」と答えている。人口の多い少ないは関係なく、地域の活動に携わるような「プレイヤー」がいないのだ。 接点のない新住人を町会に取り込むアイデアもなく、元々住んでいる顔見知りを一本釣りし続けるしかなかった。
こんなやり方ではいつまで経っても状況は変わらない。それなら、自分たちの子どもを育てて青年部に入れた方が早いのではないか——。あるときそう思った。
時間はかかるし、子どもが青年になったときに町会活動に参加する保障もないが、今ここで諦めてしまうよりはましだ。 子どもに「将来もこの地域に残りたい」と思ってもらうには、この場所が楽しいと感じる原体験が必要である。私も子どものころの楽しい思い出があるから、こうして町のことを少しは考えるようになったのだ。
では、子どもが楽しいと感じるものとは何だろうか。地域全体でやるからには、乳幼児から高齢者まで皆が楽しめることがいい。例えば、イベントだ。芸能人を呼んでの音楽イベントやダンスイベントなども考えたが、そんな費用はないし、単発で終わってしまう。いろいろと思案してみたが、結局、多世代で楽しめるのは祭りが一番だった。それに、亀戸天神社の氏子町会である立川3丁目の祭りは伝統的な祭事なのだ。
私が小さいころは大きな太鼓を積んだ山車を引っ張ったり、子神輿を担いだりした。夜の盆踊りや模擬店も大いににぎわっていた。自分の町会だけでなく、友だち数人で各町会の祭りを回り、今年はどこどこが良かったなどと皆で近隣地域全体の祭りを楽しんだものだった。
それが次第に立川3丁目だけでなく、隣接する町会の祭りも廃れていった。お神輿を売却したり、盆踊りを他の町会と合同開催したりして、何とか生き長らえているところもある。抜本的な問題解決にならないのは明白だ。
どうしたら衰退しつつある祭りを再生できるのか。私たちの挑戦が始まった。
子どもはただ叩くだけで楽しい!
まず考えたのは、祭りのメインである盆踊りで、子どもをどうワクワクさせるかだ。
「それなら太鼓だろ」。そう言ったのは青年部部長だった。確かに太鼓は花形でかっこいいし、音が出るので迫力もある。しかし当時、盆踊りの太鼓をまともに叩けるのは子どものころからやっている青年部の部員1人だけ。太鼓は決して簡単ではない。
子どもも呼んで皆で太鼓をやろうと部長は言うが、30過ぎた男がこれから盆太鼓を習い始めることに戸惑った。しかも私の子どもはまだ3歳。でも、やるしかなかった。05年7月のことだ。
数少ない青年部員の子どもが集められた。3歳の私の娘、4歳の男の子、小学生の女の子2人。そこに青年部の大人2~3人。最初の練習の日、娘は会議テーブルの陰に隠れて、ずっと出て来なかった。次回から小学生の子は来なくなった。そこで部長は立川3丁目以外に住むお友だちを連れて来ても良いと、参加のハードルを下げた。さらに毎回100円分のお菓子を子どもたちに配るようにした。なりふり構ってはいられなかった。
「ドドンガドン、ドドンガドン」
いざやってみると、子どもたちにとって太鼓は純粋に楽しいものだった。特別な技術は必要なく、叩くだけで音が出るからだ。お友だちと一緒ならもうちょっとやってみようと、私の娘も含めて子どもたちが次第と笑顔になり、さらに多くのお友だちを誘うようになった。いつの間にか参加者は10人になっていた。
1カ月後の8月末、盆踊りの本番を迎えた。半纏(はんてん)を着て、祭りの格好をビシッと決めた幼稚園生がドドンガドン。青年部も下手ながらに櫓の上でドドンガドン。櫓に乗ると目線の高さは5メートルほど。色とりどりの提灯に囲まれた櫓からの景色は別世界だった。
「太鼓を思い切り叩くのってこんなに気持ち良いのか!」。たぶん子どもたちもそう思ったに違いない。皆に褒められて嬉しそうに太鼓を叩く子どもたちの姿は、瞬く間に近所で評判となった。
お金をかけずにアイデアで勝負
「0歳から参加OK。練習は本番1カ月半前の7月から毎週1回。あとはお家で練習してね。練習に参加さえしてくれれば、本番で上手に叩けなくてもいいよ。自由に叩いていいよ」
翌年、こう告知をしたところ、それならばうちの子もと、練習に参加する子が増えた。太鼓のばちも自分たちで材料を仕入れて作成した。問題は太鼓そのものだ。当時の町会には2台しかなかったが、高額なため簡単には買えない。順番に練習するしかなかった。もっと多くの子どもに叩かせてあげるにはどうすればいいか、知恵を絞った。そこで生まれたのが「酒樽太鼓」だ。
使用済みの酒樽を酒屋さんから買い、割れないように補強して太鼓代わりにした。手作り感満載だが、これなら多くの子どもたちが一度に練習できる。すると、それを聞きつけた地域のおじいちゃんが、酒樽太鼓を載せるお手製の「うま」を20脚近く作ってくれた。
演目にも工夫を凝らした。子どもたちがもっと楽しく叩けるよう、当時流行っていた「崖の上のポニョ」を太鼓専用曲にアレンジした。祭り当日の本番、太鼓演奏だけの時間をいただき、技をそろえて披露した。3年目からは盆踊りの本編でもアレンジした曲に合わせて太鼓を叩くようになった。
子ども太鼓を始めて5年目の10年には参加者が40人を超えた。未就学児を含む低学年、高学年と2クラスに分け、高学年クラスは次々と叩く技を磨いていった。
盆踊り会場で40人の子どもたちが太鼓を叩くとどうなるか。自分の子どもの晴れ姿を撮影しようと親が集まる。祖父母も孫をひと目見ようと足を運ぶ。太鼓の子ども一人に対して最大6〜8人のギャラリーが生まれるのだ。盆踊り開始と同時に100人以上のお客さんが会場に押し寄せたのである。
盛り上がりを見せる盆踊り。さらに加速させるため、踊りを担当する「すみれ会」(婦人部的な会)も、立川3丁目オリジナルの振り付けを考案。アイドルグループのAKB48やアニメなど、皆が知っている人気曲を誰でもその場で踊れるようにアレンジしてくれた。
集客向上に合わせて模擬店もバージョンアップした。どじょうつかみ、アワビ踊り焼き、カニ詰め放題など、客の目を引く企画を考え、自分たちも楽しんだ。
盛り上がっているところには自然と人が集まるものだ。いつのころからか町内だけでなく近隣からも盆踊りに参加する人がやって来るようになった。数年前の閑散とした盆踊り会場からは想像もできない光景が広がっていた。
それが、10年くらい前の出来事。しかし話はこれで終わらない。ここから新たな課題に襲われることになる
「地区外問題」の勃発
「祭りの前だけじゃなくて、通年で太鼓の練習をやってほしい」「もう、祭り関係なく『太鼓の会』にすればいいじゃないか」「新しい太鼓を買うために、会費を集めよう」……。
注目されると多方面から、こうしたご意見をいただくようになった。
盛り上げたい気持ちは分かる。しかし通年で、毎週、子ども太鼓の練習会を実施したら年に50回以上。その運営はどうするのか。会費を取ると、習いごとだと勘違いする保護者も出てくる。実際、「うちの子どもが練習で叩く回数が少ない」という苦情もあった。
そもそも、子ども太鼓の目的は地域活性であり、太鼓の技術上達ではない。あくまでも町会行事の一環なので、通年で練習したり、責任が重くなったりしたら青年部も持続しない。子どもにとっても、運営側にとっても「ゆるさ」は必要だ。そう考え、規模の拡大はしないという選択をした。
さらに、お金の問題も浮上した。太鼓には使用済の酒樽を使うなど、なるべくお金はかけないようにしてきたが、子どもの人数が増えればお菓子などの経費は必然と増える。削るものは削りつつ、運営のための協賛金を集めるべく、子どもの名前入り提灯を1個2000円で募集した。すると想像以上にたくさんの家庭から申込みがあり、櫓のリース代ぐらいは、まかなうことができた。子どもたちも櫓に飾られた自分の提灯に喜んだ。
しかしそれでも新たな事案が勃発する。それが、「地区外問題」である。
「町会の経費は外の人に使うべきではない」「地区外の子どもは断るべきだ」と幹部が言い出した。声の大きい幹部が意見したことで、町会の方針となってしまい、まずは経費削減も狙ってお菓子の配布をやめ、続いて、泣く泣く地区外の子どもたちを断ることになってしまった。
これは本当におかしいと思った。お神輿では担ぎ手がいないので外から同好会を呼んで、お弁当やらビールやらで接待している。太鼓の子どもも同じではないか。こんな矛盾だらけな話を、子ども太鼓の立ち上げから8年も一緒に頑張ってきた子どもたちに言えるわけがない。ただし、当時の私はチカラ不足。仕方がなかった。
しかし、悪い話だけではない。14年頃からだろうか。新住民が地域に参加する機運が徐々に高まった。予想していなかった変化だ。
ヤンチャな高校生たちが戻ってきた
「我が子がすごく楽しんで太鼓を何年もやっていて、町会にはお世話になりっぱなしなので、自分も何かお手伝いできることはありませんか」「祭りの盛り上がりを見て、自分もお神輿を担いでみたくなりました」。そう、自ら協力や参加を申し出る人たちが現れた。しかも、彼ら彼女らは数年前に立川3丁目に引っ越してきた新住人である。
だからといって、前のめりにならず、慎重にことを運んだ。いきなり青年部に勧誘するのではなく、夏の太鼓練習後に飲みに行くなどゆっくり時間をかけた。そんな人間関係を築いていくうちに新旧住民の隔たりがなくなっていき、自然と青年部員が増え始めたのである。
そして17年、思いがけない出来事が起きた。
6月某日の午後10時ごろ。自宅のインターホンが鳴る。金髪にピアスのあまりガラの良くない高校生3人が玄関モニターに映し出されていた。こんな時間に何かトラブルかなと思いながら外に出て見ると、小さいころから中学1年生ごろまで、太鼓の練習に来ていた初期メンバーの3人組だった。
「今年もお祭りやりますよね? オレらも何か手伝いたいんすけど」
耳を疑った。話を聞くと、幼少期に楽しい思い出をいっぱい作った祭りに、今度は運営側でかかわりたいという。10年以上も前に撒いた、楽しい“原体験”という種の収穫チャンスが突然に訪れたのだ。
素人だった私もいつの日からか「太鼓の先生」と呼ばれるようになっていたが、このチャンスを生かそうと、高校生の彼らに太鼓の先生役を譲ることにした。大人たちはサポートに回って、現場は中高生に委ねる。太鼓の練習だけではなく、町会の運営全般になるべく中高生を巻き込むようにした。
すると、ヤンチャな高校生が町会会館の黒板を使って模擬店のプレゼンテーションをするなど、一層、積極的になってくれた。何よりもヤンチャな高校生たちはその外見とは違い、小さい子に優しく、とても人気があった。
そして18年の夏、社会人になった彼らに代わって、太鼓の先生になったのは誰か。
「みんなー行くよ! せーの、ドドンガドン!」
大声で叫んでいるのは、高校2年生になった私の娘だった。かつては同じ場所の会議テーブルに隠れていたあの子が、ニコニコしながらそこに立っていた。
祭りの再生が地域を変えた
子ども太鼓の参加者は一時70人を超え、OB・OGを含めると経験者は100人以上となった。祭りの会場は、町会会館前の道路を封鎖しただけの決して広くはない場所だが、今では数百人でごった返すまでに成長した。盛り上がりを聞きつけた東京都や墨田区の議員、職員などが視察にやって来るようにもなった。
盆踊りの曲や振り付けも古くからのものは半分ほどに減り、残りは立川3丁目オリジナルの振り付けとなった。「恋するフォーチュンクッキー」や「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」が人気で、これを踊るために来たという人がいるほどだ。昨年、19年の盆踊りでは、新曲「U.S.A」に合わせて子どもたちが太鼓を叩き、1歳児から大人までが輪を描きながら踊った。会場全体が揺れている錯覚に陥るほどだった。
中高生の太鼓の先生有志による特別演奏はギャラリーをより沸かせるとともに、子どもたちの憧れにもなっているようだ。この子たちは全員、有望な青年部候補であり、さらに未来の町会幹部候補でもある。
私にとっての原体験だった地元のにぎやかな祭りが復活した。そして、祭りの再生によって地域も変化した。
この町には100人以上、太鼓を経験した子どもたちがいる。顔を知っている子どもがたくさんいる町は普段の生活も変わってくる。学校のクラスで嫌なことがあっても、外に出れば学年関係なく遊べる友だちがいる。そうした居心地の良さからか、立川3丁目の子ども会に参加する学区外の児童はこの10年間で4倍以上に増えた。
つながりは、同世代だけではない。近所には、太鼓の先生である中高生のお兄ちゃん、お姉ちゃんがたくさんいる。祭りで顔見知りとなった地域のおじさん、おばさんもいる。たくさんの“地域の目”が子育ての一部を担うかのように、機能し始めた。
太鼓がこんなにも安心で安全な地域の形成に役立つとは思ってもみなかった。実際に、立川3丁目の犯罪件数はほぼ毎年1桁台で推移しており、祭りを起点としたコミュニティーの復活が抑止効果として少なからず働いていると考えている。
自力で稼ぐ町会へ
今後やるべきことは、いかに祭りをサステイナブルなものにしていくかだ。
祭りの予算は寄付に依存しており、4年ごとに約100万円ずつ減っている。06年に約800万円だった寄付は、18年には500万円まで減った。このペースで減り続けると、あと10年ほどで予算がゼロになってしまう計算だ。町会の経費は毎年各部が協力して削減し続けているものの限度がある。寄付や助成金に頼らず持続可能な祭り運営のために、「自力で稼ぐ町会」にしなくてはならない。萌芽はある。
せめて模擬店ぐらいは黒字化したいと思っていた3年前、墨田区の音楽イベント「すみだストリートジャズフェスティバル」や、立川と菊川の連合祭「立菊フェスティバル」に参加してみないかとお誘いを受け、青年部と子ども会の有志で出店した。
祭りで活躍した子どもたちは「やりたがり力」を発揮し、子どものお客さんを喜ばせる体験型模擬店を企画、運営した。ボールを的に当てるサッカーゲームや射的ゲーム。子どもたち自らが発案し、テストを重ねて作ったゲームは好評で、何度も順番の列に並ぶお客さんも多かった。
出店はゲームだけではない。飲食の屋台も出し、ご縁のある農家や漁師のところへ子どもたちと一緒に赴いて自ら収穫した食材を提供した。生産地と消費地のつながりを考える食育を兼ねた取り組みだったこともあり、地元企業の協賛も得ることができた。店舗の外面には収穫の様子などの写真をペタペタと貼ってアピール。その写真に写る子どもたちが実体験を話しながら販売する様子も受け、飛ぶように売れた。
町会外のこれらのイベントには過去4年間で計7回出店し、全て黒字である。この成功体験を町会のイベントでの模擬店にもフィードバックしようと、19年の町会の祭りから工夫を始めている。
例えば、子どもたちが種植えから世話、収穫までした糖度19度の銚子産とうもろこしを販売した。もちろん、写真をペタペタ貼って、時には子どもが声を張り上げながら集客。早々に完売した。樽生ビールマイスターの指導による生ビール販売も1杯300円に値上げしたが、まったく影響がなかった。価値あるものを適正価格で販売するようにした結果、19年の盆踊りは、模擬店含めて初の黒字化となったのだ。
他の地域活性にも協力したい
もし15年前、子ども太鼓の一歩を踏み出さなかったらどうなっていたか。地域の活性化にはさまざまな方法があるだろうが、私たちは祭りの再生がそれだった。
ただし、この先どうやって、さらに稼ぎを伸ばしていくか、正直まだ手探りの状態。知見や実績などをお持ちの地域があればぜひ教えていただきたい。また、他の町会でも我々のような活動をしてみたいという要望があれば、ぜひ協力できる体制を整えていきたい。
最初に「東京にも人がいない」と書いたが、近隣町会は、その状況から脱却できていない。全国にも衰退を続けている町会は数多くあるだろう。伴い、日本の祭りの数も減少しているという。
私たちの取り組みはすべてオープンにしている。何かあればどんどん聞いてほしい。どの地域でもやる気さえあればできることばかりだ。必ず地域は復活すると信じている。
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地域コミュニティーを持続可能にするため、子どもたちにさまざまな原体験を提供し、「遊び」から自然に「学び」出す地域教育を実践する。1972年生まれ。江戸時代末期より現在の墨田区立川に住む5代目。初代は大相撲のお茶屋さん、2代目、3代目は建材屋を営み繁盛していたが、関東大震災、東京大空襲で2度焼け野原になり、全て焼失。4代目からは自動車関係の会社を営み現在に至る。 |久保田健一(くぼた・けんいち)