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ふるさと納税問題で逆転勝訴した泉佐野市の志 住民優先で国に屈せず

国から「身勝手」だと決めつけられ、全国的にも悪印象が広がった大阪府泉佐野市。財政難から脱却するため「ふるさと納税」で奇抜なアイデアを打ち出し、全国からの寄付額で日本一となったが、その過程で総務省と何度も対立。ついには、ふるさと納税の新制度から除外された。しかし泉佐野市は怯まなかった。総務省を相手に裁判を起こし、今年6月、最高裁で逆転勝訴。7月から制度に返り咲いた。泉佐野市はふるさと納税をめぐる争いを通じて何を訴えようとしていたのか。なぜ国を相手に闘い抜いたのか。千代松大耕市長が内実を綴った。

386日に及ぶ闘争に終止符が打たれた。

 

 2020年6月30日、ふるさと納税制度からの除外を巡って総務省と法廷で争った大阪府泉佐野市は、最高裁で逆転勝訴した。昨年6月10日に国地方係争処理委員会へ審査を申し出てから実に1年を越える闘いだった。

 

 その日、私(千代松大耕・泉佐野市長)は公務があって東京に行くことは叶わなかったため、松下義彦副市長と、ふるさと納税チームの責任者である阪上博則成長戦略担当理事らに法廷での対応を一任した。

 

 1月30日に大阪高裁で敗訴したとき、「国と裁判をするというのは、こういうことか」と、私も職員も現実を思い知らされ、虚無感を感じていた。それだけに、最高裁の判決を聞いたときは、喜びを爆発させるというよりも、正直、安堵の気持ちでいっぱいだった。

 

6月30日、泉佐野市は最高裁判決で国に逆転勝訴した。その日の夕方に市役所で開かれた記者会見で語る千代松大耕市長(写真:毎日新聞社/アフロ)

 最高裁判決が出た直後の記者会見でも、特段、歓喜の声を上げることはなく、我々の主張が全面的に認められたことへの思いなどを、淡々とお話ししたことを覚えている。

 

 市長室に戻ると、メールやSNSには膨大な数のメッセージが届いていた。市民の皆さん、そして全国自治体の首長たちからも「よくやり抜いた」「勇気づけられた」といった声をいただいた。それを見て、我々の闘いは間違いではなかったことを再確認した。


除外に納得できず立ち上がる

 

 ご存じない方のために、まずは今回の裁判の経緯を簡単に説明したい。

 

 ことの発端は2019年5月。「6月1日からスタートするふるさと納税の新制度から、泉佐野市のほか、静岡県小山町、和歌山県高野町、佐賀県みやき町の4自治体を除外する」という旨の通達が総務省からあった。

 

▼ふるさと納税をめぐる泉佐野市と国の争い

 

 法改正を伴った新制度から、返礼品は「寄付額の3割以下の地場産品」に限定すべきというルールに切り替わった。しかし総務省は、制度変更以前の段階でも新制度のルールに合致しない取り組みをしていた自治体で、かつ18年11月〜19年3月に寄付額が50億円を超えた上記4自治体の参加を認めないとした。

 

 ルールが変わるのであれば、そのルールは変わった時点から適用されるべきだ。しかし、過去に遡ってルールを適用し、過去にルールを守っていなかったためペナルティとして新制度から除外する、という主張だった。そこに法的な根拠などない。法律はあくまで、19年6月1日から新制度を施行するとしている。

 

 「そんなバカな話はあるか」と、すぐさま取り消しを求めるよう、昨年6月10日に国地方係争処理委員会へ審査申し出をした。そして昨年9月3日、委員会は泉佐野市の主張をほぼ認め、「過去の実績を新制度に適用するのは無効」「総務省が除外を決めた理由は法律違反の恐れもある」などとして、総務大臣に再検討を勧告する異例の決定をした。だが、総務省はその勧告を事実上無視して、除外の決定を撤回しなかった。

 

 そこから、裁判に突入。大阪高裁では敗訴したものの、最高裁へ上告した結果、逆転勝訴という形で決着した。19年6月より、ふるさと納税制度から除外されていたが、今年7月3日には復帰が認められ、新たにセレクトした返礼品を並べることができた。

 

泉佐野市のふるさと納税特設サイト「さのちょく」

なぜ泉佐野市は国と闘ったのか

 

 本稿で泉佐野市の法的な正当性などを改めて論じたいわけではない。なぜ我々が国を相手にしても怯まず闘い抜いたのか、その背景や理由、あるいは本質を伝えたい。

 

 闘い抜いた理由は大きく2つある。1つは、「国と地方の真に対等な関係」を築くためだ。

 

 「地方と国は対等」と言われているが、現実はそうではない。国から交付金などの財源をいただいている以上、対等というのは建前だということを、全国の自治体や首長は甘受している。実際、ふるさと納税でも国からの改善要請を受けた途端に、泣き寝入りした自治体は少なくない。

 

 18年4月以降、ふるさと納税の返礼品の内容をめぐり、総務省からの改善要請、指導、通知、圧力が増していった。いかに寄付を集めるか各自治体は知恵と工夫を凝らし、努力していたが、総務省は「速やかに返礼割合を3割以下にすること」などと要求してきた。

 

 これは、あくまで総務省の胸先三寸の判断であり、法的根拠はない。それに、総務省は18年6月から8月までに見直すよう指導してきたが、泉佐野市も含め、多くの自治体はすでに多数の協力事業者を抱えており、そんな短期間の見直しは困難であった。事実、年末や年度内の見直しを主張する自治体は多かった。総務省の失態に巻き込まれ、自治体の現場が混乱した、というのが実態だろう。

 

 それでも総務省は18年7月、12自治体を名指しで批判し、あたかも従わない自治体が悪いかのようなイメージを与えた。その結果、佐賀県唐津市や大分県佐伯市などはすぐさま方針を見直した。また、後に新制度から除外された小山町は、新町長が直々に総務省へ出向き、謝罪するという一幕もあった。なぜ総務省に従属するのかといえば、多くの地方自治体は毎年、数十億円規模の地方交付税を国から受けているためだ。

 

交付税を利用した高圧的な国の姿勢

 

 地方交付税は自治体にとって重要な歳入だ。私が許せないのは、その交付税を人質にとるかような高圧的な国の姿勢である。

 

 中央集権からの脱却を図るべく、2000年に地方分権一括法が施行されてから、本来、国と地方は対等であり、法律に基づかなければ、国は自治体に指導・関与ができないことになった。にもかかわらず、泉佐野市だけではなく全国の複数の自治体が法に基づかない執拗な関与、さらには交付税の減額をちらつかせた脅しとも取れる圧力を受けた。

 

 実際、18年6月から8月頃までのあいだ、泉佐野市の担当者へ2度、私には3度、総務省から電話で改善要請に従うよう指導があった。そうしたやり取りの中で、総務省の担当者から「交付税など、どうにでもできる」という趣旨の発言もあった。そして、その予告通り、泉佐野市は19年3月から特別交付税の交付が大幅に減額された。

 

 それでも抗ったのは、先に延べたように、こうした国と地方の関係を変えたかったからに他ならない。声を上げて国と自治体の「主従」関係を「対等」に変えなければ、延々と地方は国に振り回されることになる。

 

 泉佐野市には、国や国策に翻弄され、苦しめられてきた歴史があるのだ。

 

累積赤字は約35億円、財政破綻寸前に

 

 2004年3月18日は、我々、泉佐野市の人間にとって忘れ難い日となった。新田谷修司市長(当時)が「財政非常事態宣言」を発令したのである。泉佐野市は、巨額投資による赤字によって財政破綻寸前まで追い込まれていた。最大の原因は国家プロジェクトの関西国際空港(関空)の建設である。

 

 1980年代半ば、関空の建設、整備にあたり、国は地元自治体の協力を要請した。泉佐野市は空港のある人工島と対岸を結ぶ連絡橋の整備や、埋め立て造成した「りんくうタウン」への施設誘致、さらには、市立病院や下水道事業などの社会インフラ整備などを担った。

 

関西国際空港と泉佐野市内を結ぶ連絡橋

 ところが、バブル崩壊と重なって進出予定だった企業が次々と撤退。さらに、関空自体も94年の開港からしばらく利用客が伸びず、閑古鳥が鳴いていた。空港開設に伴い、700億円以上もの莫大な投資をしていた泉佐野市は、投資を回収できず、赤字を流し続けるしかなかった。2003年度に約35億円の累積赤字を記録し、ついには、04年の財政非常事態宣言を出す事態に。08年度の決算では、「財政健全化団体」に転落した。これによって財政健全化計画の策定が義務付けられ、自主的な改善努力が必要となった。

 

 バブル崩壊や関空の立ち上げの失敗は、致し方ないことかもしれない。しかし、国は財政が弱体化した泉佐野市をさらに虐げるようなことを突然、決めた。

 

 09年、国は、関西国際空港会社が保有していた関空連絡橋の国有化を決定。泉佐野市に年間約8億円入る予定だった固定資産税がゼロになる事態となった。我々は当然、固定資産税を当てに投資計画を立てていた。赤字の返済にも充てたい。なくなるのであれば死活問題である。

 

 代替収入を得たいと、関空連絡橋利用税の導入を進めたところ、これに国土交通省が反発してきた。補填策を示されるも、到底、期待できる内容ではない。国の要望をそのまま飲むと財政再建はさらに遅れることが目に見えていたため、必死で交渉したという経緯がある。

 

 国と地方が対等でないから、こういうことが続く。どこかで断ち切らなければならない。

 

 特に、ふるさと納税をめぐる総務省の対応は度が過ぎており、本当に許せなかった。ここで踏ん張らなければ、「地方自治」や「地方分権」の危機につながる。そう強く思い、闘い抜くことを覚悟した次第だ。

 

 闘い抜いた、もう1つの理由。それは、「住民の利益」を守るためである。

 

泉佐野市民の生活を最優先に

 

 自治体や首長というのは、国ではなく自らの地域を向くべきである。たとえ周囲から批判されようとも、国と争うことになろうとも、いかなる場合でも、住民の利益を最優先とし、守るという地方自治の原則を貫くべきである。これは、泉佐野市が国に逆転勝訴した法的な勝因に直接つながらないかもしれないが、勝利に導いた本質であると考えている。

 

 私は市長に就任以来、愚直に住民や地域の利益を最優先に考え、市政に取り組んできた。

 

 市長に立候補した理由は、関空を起点とする財政難が看過できなかったからだ。財政難は住民サービスを著しく低下させていた。決して豊かではなかった泉佐野の人々の生活に、08年のリーマンショックが追い打ちをかけた。

 

 当時、市議会議員だった私は、駅前でビラ配りなどをしており、毎日のように住民から「生活がしんどい」「お金がなくて食事もできない」という悲痛な叫びを耳にしていた。知り合いの会社も次々と倒産していた。にもかかわらず、水道などの公共料金は値上げする一方。長年に渡り、住民に苦しい思いをさせてしまっていた。

 

 このままでは本当に泉佐野市が潰れてしまう。何とか住民を救いたい、泉佐野市を変えたい——。そんな思いで私は市長に立候補した。

 

 11年4月に市長に就任してからは、真っ先に自らの給与を40%カットし、職員の給与も一律8〜13%下げるなどして財政再建に取り組んだ。13年度決算でようやく財政健全化団体から抜け出したものの、住民サービスを他の自治体並みに向上させるには、財源はまだまだ足りなかった。

 

泉佐野市役所。財政を建て直すべく、すべての職員が給与カットを余儀なくされた

 関空連絡橋の利用税を提唱するなど、やれることは何でもやってきたつもりだ。一時期は、飼い主に税金を課す「犬税」を検討するなど、自ら税収で稼ぐため必死に取り組んできた。だが、地域の中で税収を上げていくには限界がある。

 

 そうした中、財政の抜本的な改革という光明をもたらしてくれたのが「ふるさと納税」だった。

 

頼れるのは自らのアイデアと工夫

 

 ふるさと納税は、税収ではなく寄付という「税外収入」。しかも、地域が限定されず、全国規模で受け入れることができる。住民も含む地域内の方々から税収を得る、という施策とは根本が異なり、工夫の余地も金額の幅も広がる。

 

 じつは、市長就任直後から私の肝いりで、税外収入確保に力を入れており、文化ホールや生涯学習センターといった市の施設の命名権(ネーミングライツ)を売却する事業を進めていた。その一環としてふるさと納税にも着目し、新たなプロジェクトチームを立ち上げた。

 

 私を含め、チームのメンバーが目指したのは大きく2つ。住民に負担をかけないこと。地場の企業を支援して地域経済を回すこと。特に後者は返礼品を提供する企業に直接収益が入るため、寄付額が増えれば地元も潤うと考えた。

 

 12年、プロジェクトは本格的に動き出した。それ以前は泉佐野市の特産である「泉州タオル」が唯一の返礼品だったが、「水なす」や「関空周遊クルーズ」など13品まで増やし、12年度の寄付額は前年度比約3倍の1902万円となった。私も名刺交換をした方にふるさと納税のパンフレットを送付するなど、メンバーとともに汗をかいて積極的にアピールした。

 

 その後、ふるさと納税そのものが世に広く知られるようになると、カニやイクラといった魚介類や、霜降り和牛といった高級食材に人気が集まるようになる。そして、そうした食材を提供できる自治体、たとえば九州や北海道の市町村が多くの寄付を集めた。かたや、泉佐野市は農水産業が弱い。ふるさと納税のサイトに派手に広告を打つようなお金もない。これには参った。

 

 頼れるのは自らのアイデアと工夫しかない。メンバーは知恵を絞った。そんな中、生まれたのが14年6月に始まった「ピーチポイント」の施策である。

 

高級食材ではなく、地元航空会社のポイント出品で勝負

 

 当時、阪上理事が格安航空会社(LCC)のピーチアビエーションへ出向していたことから関係性が深まり、官民一体で何かできないかと考えた。そこで同社の航空券などに交換できるピーチポイントをふるさと納税の新たな返礼品にしようというアイデアが湧いた。

 

 寄付が増えれば、ピーチアビエーションと関空の利用客も増える。同社は泉佐野市に本社を構えることから、我々が掲げる地場企業の支援、地域経済の活性化という趣旨にも合致する。迷うことなく私はゴーサインを出した。結果、その年の寄付者の4割がピーチポイントを選択し、寄付額は前年度の約10倍となる4億6756万円に上った。1年ですぐに結果が出たことを本当に嬉しく思った。メンバーのモチベーションも一気に高まった。

 

 これを機に我々は、ふるさと納税への取り組みをさらに強化していく。16年にはプロジェクトチームのメンバー兼務ではなく専属にした。私は成果を出すこのメンバーに全幅の信頼を置いていたため、細かく口出しをすることはなく、自由に伸び伸びとやってもらった。

 

 彼らが大切にしていたのは、寄付者に喜んでもらえる企画を出すこと。そのためには、寄付者のニーズをしっかりと把握しなければならないと、他の自治体の取り組みを細かくチェックしたり、ふるさと納税の各種ポータルサイトを分析したりして、何がトレンドなのかを常に追っていた。全国でこれほどまで緻密な作業をしている自治体は他にないと自負している。しかも、民間のコンサルタントやマーケッターなどを雇うことなく、市役所の職員だけで取り組んでいるのだ。この努力は実を結び、寄付額は年を追うごとに増えていった。

 

 18年度末からは、返礼品に加えて「Amazonギフト券」を提供するキャンペーンも実施した。きっと物議を醸すだろうと予想した。けれども、やらざるを得ない局面に追い込まれていた。私は最終的に泉佐野市のプラスになると考えたから認めたのだ。

 

地元企業を救済したい一心だった

 

 Amazonギフト券キャンペーンの正当性については改めて説明しておきたい。まず大前提として、当時のふるさと納税の法律やルールを遵守していた。そして、その段階ですでに総務省によって新制度から外されることが分かっていた地元企業を救済する必要があった。

 

 泉佐野市のふるさと納税には140社以上の地元企業が携わっていた。当時の返礼品の調達費は4割から4割5分だったので、たとえば18年4月から12月末までの寄付額270億円のうち、100億円以上は地元企業から商品を購入していたことになる。さらに、約6割の企業は、返礼品の生産場所などを制限する新制度の地場産品規制に引っかかっていた。

 

 新制度から除外され、ふるさと納税関連の業務がゼロになれば、そうした会社の経営は悪化し、多くの社員やスタッフが路頭に迷うことは目に見えていた。現に不安の声は私の耳にも直接届いていた。彼ら、彼女らが不幸になることはあってはならない。もう泉佐野市の住民が苦しむ姿を見たくはない。

 

 そのためには新制度に切り替わり、除外される前に少なくとも向こう1年間分のふるさと納税業務を地元企業に残しておく必要がある。即時配送ではなく、数カ月先の送付となる代わりに、Amazonギフト券を付与する、というキャンペーンをチームが思いついた。これによって配送時期を分散させることが可能となり、6月以降に申し込みがゼロになったとしても、毎月一定数の業務を地元企業に与えることができる。まさに、窮余の一策だった。

 

▼泉佐野市のふるさと納税寄付額の推移

 

(出所)泉佐野市「国地方係争処理委員会審査申出書」のデータを基に作成

 結果、このキャンペーンが奏効し、18年度の寄付額は、前年度比で268%増となる約500億円にも達した。ただし、キャンペーンは想定を遥かに超える反響を呼んだことは事実。最高裁の判決文や補足意見において、「社会通念上節度を欠いていた」「眉をひそめざるを得ない」と指摘されたのは、主にAmazonギフト券キャンペーンのことであり、真摯に受け止めている。

 

 しかしである。我々にも前述のような事情があり、地元企業のためには必要な施策だったのだ。加えて、すでに泉佐野市の住民はふるさと納税による恩恵を受け、生活が徐々に向上していた時期。この流れを市長として止めるわけにはいかなかった。全国の皆さんからもご批判をお受けしたが、私の仕事は泉佐野市を豊かにすることなのだ。

 

寄付の4割は教育・子育てに

 

 寄付金は、施設改修などの「インフラ事業」や「教育・子育て」、「社会福祉」を中心に有効活用させていただいている。18年度は寄付金の4割を、教育・子育て関連に費やした。中でも悲願の事業だったのが「学校プールの整備」である。

 

 これまで、泉佐野市にある全18の小中学校にはプールがなかった。そのため、生徒たちは水泳の授業の時には校外の市営プールに行かざるを得ず、不便を強いられていた。そんな子どもたちを見ていられなかった。そこで寄付金を原資に16年度からプールの建設を進めた。現在までに11校のプールが完成している。新設したプールに水を溜めておくことで、災害時にはトイレなどの生活用水として使えるようにもなった。

 

今年完成した長坂小学校のプール

 防災への投資は、泉佐野市が長年やりたくてもできなかったことだ。今後は、子どもたちの熱中症対策などのため、数年以内にすべての小中学校の体育館に空調設備も導入していく。

 

 18年夏、泉佐野市も台風21号の被害を受けた。関空は閉鎖され、数千人が人工島に孤立するなど深刻な事態に陥ったことは記憶に新しい。市内でも多くの住民が学校の体育館に避難したが、暑い時期なのにクーラーがなく、住民の体調不良が危惧された。備えは必要だ。停電時でも空調が稼働するよう、LPガスを活用した設備を、ふるさと納税の寄付金で整備する予定だ。

 

 教育面では、子どもの学力向上のために「放課後教室」も実施している。残念ながら泉佐野市は府内で相対的に学力が低い。そこで基礎学力アップだけでなく、子どもたちが勉強に対してモチベーションを高めることを目的とし、講師などのボランティアを募って、18年度は小学校で362回、中学校で125回の放課後教室を実施した。

 

 社会福祉については、地域コミュニティーの活性化を進めている。たとえば、主に障害者や高齢者などの弱者を対象に、声掛けや家事の手伝いを行う支援活動へ寄付金を活用している。18年度にボランティアなどが市民の家庭に訪問した回数は延べ4万914回、支援した人数は7万8606人に上る。また、公民館での子育てサロンや世代間交流会といったグループ支援活動も推進しており、18年度は2761回、参加者数は5万2549人に上った。

 

 その他の使い道もきちんと、すべて開示している。そんなことは当たり前だと思うかもしれないが、実際には全国自治体の24.5%に当たる438自治体が寄付の活用状況を公開していないという総務省の調査結果もある。これは由々しきことだろう。

 

 このように、泉佐野市は寄付を無駄なく住民の幸せのために有効活用していると胸を張って言える。これらは決して、目新しい使い道ではないかもしれない。だが、数十年にわたる緊縮財政によってこれまで手付かずだったことが、ふるさと納税のおかげで次々と実現できている。泉佐野市の行政サービスはようやく近隣の自治体に肩を並べるところまで持っていけたのだ。

 

首長の使命は住民を守ること

 

 泉佐野市がどんな思いでふるさと納税に取り組んできたのか、ふるさと納税のおかげでどれだけ救われたか、お分かりいただけただろうか。長年苦しんできた住民がせっかく手にしたこの利益を、私は市長として守り抜かねばならないと思った。たとえ国から脅されようが、易々と諦めるにはいかなかった。

 

 

 「泉佐野市 ふるさと納税問題で勝訴という記事が出たとき何か涙出た。地元民としては、お金のない泉佐野が必死で頑張ろうとしてることが伝わってくるのだよ」

 

 こんな投稿がTwitterに流れていた。そうした住民の喜びの声が日増しに増えている。学校に子どもを通わせている保護者からも「泉佐野市は変わった。ほんまに良くなった」と言ってもらえる。本当に報われた気持ちになる。 

 

 首長にとって大事な使命は、こうした声を増やすことであり、そのためには、時には国のような大きな相手でもけんかをしなければならない。しかし、多くの首長はそれをしない。それは、前提として対等ではない国と地方の関係があり、そして、住民の幸福を最優先にした自治ができていないからではないか。

 

 地方分権や地方創生が叫ばれているが、この2つの課題に向き合い、解決しない限り、地方は良くならない。だから、私は自らの言葉で全国の首長に呼びかけたい。相手が国であろうと、闘うべきときは闘おうと。そして、あくまでその闘いは、住民のためであるべきだと。そうでなければ、「地方分権」の時代などいつまでもやって来ないだろう。

 

これからも続く国との闘い

 

 弱い立場の者が強大な権力に立ち向かうのは勇気がいることであり、難しい。それでも応援してくれる人はいる。先日、ある会社が、企業版のふるさと納税で200万円の寄付を申し出てくれた。聞くと「泉佐野市が頑張っているから、俺たちももっと仕事を頑張って、応援してあげようと思った」とのこと。勇気をいただいた。

 

 一方で、コロナ禍を機に、大阪府や北海道の知事が国に立ち向かう姿勢を見せた。これにも勇気をもらい、感銘を受けた。彼らのような首長は文字通り命を張って、地域住民のために奮闘している。一方、省庁のトップはそこまで命を張っているようには私には見えない。やはり直接選挙で選ばれるからこそ、選んでいただいた市民に対して強い責任感が生まれるのではないか。私自身も、そうである。

 

 これからも我々は闘い続ける。総務省との闘いは終わっていない。今年6月8日、特別交付税の前年比90%減額に対し、取り消しを求めて大阪地裁に提訴した。本来ならばコロナ対策で使えるはずの交付税がなく、住民や医療従事者は大変苦しんでいる。地域を預かる首長として看過できない。

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千代松 大耕

千代松 大耕 @chiyomatsu

1973年大阪府泉佐野市生まれ。同志社大学経済学部卒業、米Lincoln University大学院、和歌山大学大学院などを修了。堀場製作所を経て、2000年2月に泉佐野市議会議員初当選。市監査委員、市議会議長などを歴任し、11年4月から現職。| 千代松大耕(ちよまつ・ひろやす)

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