筑波山の麓に広がる“トトロの世界”を守る 日本の原風景、石岡市・八郷
何もないところに戻ってきてしまった、と正直思った。ずっと地元が嫌いだったのだ。
でも地元にUターンして丸1年が経とうとしている今は、違う。「地元には何もない」「自然なんてダサい」などと失望していた自分を叱りたいと思うほど、地元のことが好きになった。
私が生まれ育った茨城県の旧八郷(やさと)町(2005年に石岡市と合併)は、「有機農業のメッカ」、「にほんの里100選」といった顔を持ち、芸術家や作家が数多く集まる地域としても知られている。なんと言っても、その魅力の中心は「自然」だろう。
都心から電車でわずか1時間強。研究学園都市として名高いつくば市という、ちょっとした都会と山を挟んで隣り合わせという立地にも関わらず、豊潤な自然と人々の暮らしが令和になっても共存している稀有な場所だ。
何もないと思っていた地元には魅力がたくさんあった。廃れていくばかりと思っていた地域は今、若い力をもって変わろうとしている。
トンネルを抜けるとそこは“トトロの世界”
南に隣接する土浦市から、2012年に開通した「朝日トンネル」を通ると、わずか2分ほどで四方をなだらかな山に囲まれた盆地の旧八郷町に入る。朝日トンネルの開通前は都心方面から朝日峠を超えるのに15分程度もかかっていた。
トンネルを抜けるとまず、360度を取り巻く山の遠景と、その中に広がる田んぼの近景が目に飛び込んでくる。一つ目の信号を過ぎると、多くのいちご農家が軒を連ねる「いちご団地」に入り、毎年春には大勢のいちご狩り客でにぎわう光景が見られる。そこを通り過ぎ、フルーツラインと呼ばれる県道150号を北上すると盆地を縦断できるが、風景に大きな変化はない。
役場や銀行、JAなどが集積する旧八郷町の中心部、柿岡地区を取り囲むように、田んぼや畑、果樹園やビニールハウスがどこまでも続く。柿岡地区とて、点々と田畑が残る。
そう、手つかずの自然、というわけではなく、人の営みを感じる自然が残るというのが、八郷の特徴と言える。
田畑に散る作業中の人々やトラクター、山から丸太を切り出して運ぶユニック車、農道沿いに並ぶ果物の直売所や選果場。春の田おこしの匂い、夏の草刈りの音、秋の稲穂の黄金色、冬の野焼きの黄色い煙……。
ここには、山に囲まれた自然の温かさと、住民たちが何百年も前から、自然の恵みを大切に享受しながら守ってきた暮らしがある。田舎育ちでない人でも、どこか懐かしさや安心感を覚えるに違いない。まさに“日本の原風景”だと思う。
だからだろうか。初めて八郷に来る人は皆、「都心から1時間の場所にトトロのような世界があるなんて」と口をそろえて言う。
比較的町のエリアで育った私でさえ、放課後の遊び場といえば山か川だった。休みの日には家族でサワガニや山菜を取りに行った。周囲の山は、平地の土壌を守るのに十分な高さがありつつも、人が入れないほど険しくはない。深山ではなく里山。このちょうどいい塩梅が、八郷を“トトロの世界”たらしめるのだろう。
100年以上も観測を続ける地磁気観測所の恩恵
営みの現場に視点を落としてみよう。多種多様な農業が営まれる八郷は、外からの影響を受けにくい豊かな生態系と肥沃な土壌が礎となっている。山に囲まれているために水域が盆地の中で完結しているのだ。
中央の平地には一面に田んぼが広がり、周囲の山に近づくほど、レタス、にんじん、小麦などを育てる畑や、りんごや梨、柿などの果樹園が増えてくる。その中に、茅葺き屋根の民家が今でも数十軒、点在して残っている。この地では自然と住民とのあいだにレイヤーが少なく、生活燃料に薪を使うような人もいる。
人の手が、ある一定の段階で留まり、都市化が進まなかったのには、盆地という地形のほかにも要因があると思っている。その一つが、気象庁の「地磁気観測所」だ。
八郷の中心にある地磁気観測所は、1913年(大正2年)1月1日から、100年以上もずっと地磁気の観測を続けている。航空機や船舶などで使用されるコンパスなどの地磁気計測器の検定機関も、日本で唯一、八郷の観測所が担っている。
正確な地磁気の観測には、磁気を帯びやすい金属や、磁気を発生する電気、とりわけ電流が一方向へ流れる直流電気は大敵となる。そのため、鉄を扱ったり、電気を大量消費したりするような大規模な工場は近隣に設置できない。一般に直流を採用する鉄道も、おおよそ半径35キロメートル以内は、直流を避け交流にするか、非電化区間にしなければいけない。
観測所の東側、10キロほど離れた場所を南北に走るJR常磐線もほとんどが交流区間であり、だいぶ南下した藤代駅と取手駅のあいだで、直流に切り替えている。切り替え区間は絶縁され電流が流れていないため、昔は車内灯や空調が絶縁区間で一瞬、消えるという時代もあった(今は電車搭載のバッテリーにより消えない)。
このように、鉄道の施工にも影響を及ぼす地磁気観測所の存在が、結果的にこの地域の自然環境を守っているといえる。
多彩な移住者たちが八郷の魅力を際立たせる
八郷の魅力は、様々な条件下で維持されてきた自然だけにとどまらない。ここに、「人」も引き寄せられ、その人が八郷をより魅力的な地域にしている。
八郷は昔から自然が多くの人たちを惹きつけ、多様な移住者で地域が形成されてきた。代表が、農業を志す移住者。八郷は日本有数の「有機農業のメッカ」と呼ばれている。このきっかけを作ったのは、1970年代に移住してきた農業のパイオニアたちだ。
80年代にはパラグライダーなどのスカイスポーツ愛好家がこぞって移り住んだ。八郷の独特の地形が最適な気流を生み出すということで、スカイスポーツの世界大会が開かれるほどだ。
90年代には陶芸をはじめとする芸術家、2000年代は木工や絵の作家が多く移住してきた。
八郷を代表する木こり、「上林(かんばやし)製材所」の廣野匠さんも、移住者の一人。都内の農業大学で林学を勉強した後、新潟・佐渡の森林組合に就職したが、産業としての林業の仕事に違和感を覚え、八郷の上林製材所の親方に「最初で最後の弟子」として師事した。山のことを一番に考え、自然の摂理に従って仕事をするという上林製材所のあり方が、探し求めていた理想と重なったのだそうだ。
廣野さんは、明るい人柄で世代や分野を問わず多くの人を巻き込む魅力がありつつも、一度山と向き合うと、周囲には脇目も振らない真剣さがある。私はそんな廣野さんに敬意と憧れを抱かずにはいられない。
愛知県出身の角谷聡さんは、八郷に薪窯で焼くイタリアパン工房「PANEZZA」 を開業した職人だ。日本ではまだ珍しい本物のイタリアパンだが、イタリアで5年間修行したとあって、料理と合わせたときの味わいを知れば誰もが舌鼓を打つ。古民家の蔵を改装して設置した窯で焼くパンは、都内の有名ホテルから注文が殺到する。母屋のカフェは、地元の住民にも欠かせない場所となっていて、連日にぎわっている。
八郷を魅力的にしようと奮闘しているのは、新規の移住者だけではない。Uターンしてきた若者も、八郷の魅力をさらに高めようと模索している。その一つが、私が同世代の仲間とともに始めたプロジェクト、「八郷留学」だ。
八郷の未来が自分ごとになった
八郷で生まれ育った私は、大学進学と同時に上京。18年4月に新卒で海外転勤を前提とする大手メーカーに就職した。けれども、サラリーマン的な働き方がつまらないと感じ、転職。2社目は刺激は強かったが、いわゆるブラック企業で体も心も続かなかった。金銭的な事情もあって、退職と同時にいったん実家のある地元へUターン。昨年7月のことである。
とはいえ、特に何かしたいことがあったわけではなかった。時間は十分にあったため、せっかくだから今の地元を知ろうと思うようになった。ちょうど新型コロナウイルスが大流行し始め、就活のために頻繁に都内と地元を行き来するのをはばかられたこともある。
たまたま八郷で人気の「ブックカフェ えんじゅ」を訪れた際、地元出身の熱心な市役所職員と出会い、その方から先述したような八郷中の魅力あふれる人や場所を紹介してもらった。
豊かな自然の恵みを上手に使い、自分の暮らしを作る人、遊びを作る人、仕事を作る人——。
農林業や飲食、芸術などの分野でモノを作り出し、それを生業とする人々が多いことに感激した。往々にしてそういう人たちは確固たる自分を持ち、信じる道を貫く生きざまがかっこよく見えるからだ。
そうした人たちと対話をする中で、大昔から守り続けられてきた八郷の自然の価値にも、改めて気付かされた。
そう思った途端、地元でできることがいくらでもある気がしてきた。この膨大なポテンシャルをどう生かすか、呼吸をするように考えるようになった。自分のルーツがここにあるのは、どうあがいても変わることのない事実であり、この地域の未来は、そのまま自分ごとになる。
そこで、始めたのが、昨年8月に私が立ち上げた八郷留学というプロジェクトである。「暮らしも遊びも物語も、作るのは全部きみだ」をテーマに、八郷の農家や作家の協力のもと、県内外の人々に里山体験を提供している。
「八郷留学」プロジェクトで里山も守っていく
私がUターンして地元のことを改めて知る中で、多くの魅力的なクリエイターや、里山の自然などの地域資源に魅せられ、それらをもっと活用して世に広めたいと思ったのが、立ち上げのきっかけ。私を含む地元のUターン組と、地域おこし協力隊の卒業生を中心に、プロジェクトをスタートさせた。
日帰り、週末の1泊2日、夏休みの1週間を中心に、県内外の子どもたちが八郷に“留学する”という設定のもと、地元の有機農家や作家の協力を仰ぎながら、子どもたちに里山での自然体験を提供し、自然とともに生きる術を伝えている。これまでにのべ110人以上が参加し、運営に携わった協力者も40人に上る。
当初は単純に地元の良さを広めたいという動機だったが、活動する中で里山の資源を守りたいという思いも強くなった。私たちが心地いいと思う自然環境は、丁寧な人の営みがあってこそ守られてきたものだと痛感したからだ。最近では、「棚田で田植えをしてホタルを守ろう」という留学プログラムなどを企画し、自然保護への思いを企画に落とし込むよう努めている。
八郷留学の副次的な狙いとして、地元に生業を作りたいという気持ちもある。八郷の醍醐味は山に近い暮らし、農のある暮らしだが、そんなディープな世界への憧れだけで移住する人はそう多くはないだろう。人をもっと呼び込むためには、生活基盤を用意しなければならない。
「いばらきフラワーパーク」をきっかけにした生業作りを
裏を返せば、若い人が就きたいと思えるような仕事がないことが、いまの八郷の課題である。土に近い仕事や自然とともに生きる暮らしというのは、刺さる人には刺さるが、若者はその世界の入り口のはるか遠くにいるというのが実感だ。
しかし、可能性はある。そのきっかけになり得るのが、八郷にある「いばらきフラワーパーク」である。
同施設は、成田空港のラウンジなどの空間デザインを手がける民間企業を指定管理業者として、この4月にリニューアルオープンした。「“見る”から“感じる” フラワーパークへ」をスローガンに掲げ、「100の体感」と呼ばれるプログラムを立ち上げた。ここに八郷のクリエイターを外部パートナーとして迎え入れ、園内で年間100近いワークショップを開催することになったのだ。
伝統ある桐工芸職人や木工作家、知識と経験豊富なハーバリストによる教室、乗馬クラブなどによる体験、ツリークライミングなどが用意されている。深い思想と情熱の世界が、空間デザイナー集団のプロデュースによって、キャッチーで親しみやすく提案されている。
コロナ禍が落ち着き、新たな観光名所として話題となれば、クリエイターへの門戸がさらに広がり、フラワーパークを起点として、各クリエイターの売り上げも増える可能性はある。ビジネスが拡大すれば、オペレーションや宣伝、マーケティングなど、ものづくり以外の雇用も創出される。若者の移住者を増やすには、このような「場作り」がもっと必要なのかもしれない。
背中を押してくれた一言
八郷留学のプロジェクト自体も、UIターンを含む移住者を引き寄せる「場」に成長していかねばならないと考えている。
私より少し前にUターンしていた中学の同級生、綿引佑香奈さんは、八郷留学の立ち上げ直後からプロジェクトに参画。現在は都内の会社に通いながら、八郷留学の中核メンバーとして広報などを担当してくれている。同じく八郷出身で、高校卒業後にオーストラリアで大工をやっていた飯田豊己さんは、八郷留学で地元の同世代が生き生きと活動しているのを見聞きし、仲間に加わりたいと言ってくれた。
今はまだ規模が小さいが、八郷留学が雇用を生み、八郷に移住者を増やす一助になれるよう、頑張りたい。幸いにして、価値を認めてくださる方もいる。
今年2月、茨城県庁の主催する関係人口創出プロジェクト「STAND IBARAKI」において、八郷留学のプロジェクトが3組のMVPの一つに選出された。受賞した際、木こりの廣野さんはお祝いの言葉のみならず、「原部くんみたいによりゼネラルな視点で地域のことを考える人も必要だよね」と言ってくださった。
一つのことを極めるスペシャリストに憧れていた私にとって嬉しい一言だった。自分の活動が意味のあることなのだと、自信が持てた瞬間であった。
今年11月、『里山資本主義』の著者である藻谷浩介氏をゲストに迎える「里山資本主義フォーラム」が八郷で開催される予定だ。私もこのフォーラムの実行委員会に委員長として関わらせていただいている。
現在、実行委員会では、どんなイベントにしようかと議論を重ねているところだが、八郷で既に行われている里山資源の活用事例紹介にとどまらず、これからどんなことができるか、またどうすれば八郷が八郷であり続けられるか、多くの人の意見を取り入れてみたいと思う。
これをきっかけに、より多くの人たちに八郷との関係を持ってほしい。関わりしろは、無限にある。都市だけでなく、各地の里山で暮らす人たちともネットワークを構築し、日本中の里山を一緒に盛り上げていきたい。
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1994年生まれ。2018年早稲田大学国際教養学部卒業。在学中にイタリアに留学。大手メーカーなどでの勤務を経て、20年7月に地元である茨城県石岡市八郷地区にUターン。里山の豊かな自然をうまく生かして暮らす移住者がいる一方で、若者の流出などによる人口減少、小中学校の統廃合といった課題を知る。八郷の良さを残し、地元の人たちがもっと生き生きと暮らせる地域にしたいという思いで、「八郷留学」というプロジェクトを発足。 |原部直輝(はらべ・なおき)